『文革後中国基礎教育における「主体性」の育成

李霞著『文革後中国基礎教育における「主体性」の育成』 

 本書は、中国における学習者の「主体性」概念の意味理解、およびその概念が教育研究、教育政策、教育課程および教科書、授業実践に与えた影響を考察した示唆に富む著作である。近年、21世紀を生き抜くための力として、欧米に由来する「キー・コンピテンシー」や「21世紀型スキル」が広く注目されているが、こうしたいわば学力尾グローバル・スタンダード達成のため、中国では学習者の「主体性」の育成に焦点を合わせた教育改革が進められているのである。本書は、この「主体性」という概念を取り上げ、歴史的・政策的・実践的に多面的な分析を行うとともに、教育実践において実際に解釈され、実行される「主体性」の実態について初めて詳細な分析を行い、その意義と課題を探求した点で高く評価される。

 まず、「主体性」という概念についてであるが、中国の教育研究分野では「主体性」の英訳として「Subjectivity」を使っている。この「Subjectivity」の提議としては、個人の意思、志向、判断、感情など内在的なものが強調されている。また、日本語で使われる「主体性」も同じく個人の意思、認識、考え、判断などの内在的なものを強調する概念である。しかしながら、中国の中国の研究分野で論じられる「主体性とは、「自主性、能動性、創造性」の他、「社会性」とも関係する概念としてとらえられており、社会をより良くするために他社との協力や連携を保つ態度と能力であると定義づけられている。こうした定義に立てば、中国における「主体性」育成研究においては、ややもすると個人の選択の自由が欠けることも起こりがちであり、その点が本書で一貫して主張される中国固有の「主体性」概念の特徴であるという。

 第1章「『主体性』育成研究の理論的変遷」ででは、1980年第以降の「主体性」の育成をめぐる理論的研究の変遷について検討されている。①「主体性」育成研究の萌芽(1979~1990年初頭)の時期では、学習者の「主体性」の発揮は個人の権利だと捉えられ、その育成の目的は、個人の発達を促すことと認識されていた。しかし、その後、②「主体性4」育成研究の模索と確立(1990年半ば~1996年)の時期では、個人の発達と社会の発展とが対立するものと捉える論調が研究者の間に形成された。その背景として、1989年に起こった民主化運動としての天安門事件後、教育研究分野にも「資産階級自由化」に対する厳しい取り締まりが講じられるようになったことが挙げられる。そして、社会主義市場経済体制の確立をきっかけに、③「主体性」育成研究の深化と発展(1997~2010年)の時期には、再び「主体性」育成における個人の自由や個人の発展が注目されるようになった。しかし、現在においても「主体性」の発揮は個人の権利とはとらえられておらず、天安門事件前と比べ、「主体性」育成の自由度はかえって低いことが指摘される。

 第2章「『主体性』育成に関する実験の展開」では、中国における「主体性」育成の代表的な論者である裴娣娜が1992年から2005年までの13年間に全国16の省・市の122の小学校において実施した「主体性発達実験」を取り上げ、「社会性」がどのように捉えられ、どの程度子どもたちの自律的な探求に配慮されてきたかが考察されている。実際の実験では、1990年代の頃は「社会適応性」の育成が強調されており、既存の社会をより良く受け入れるための活動への積極性が「主体性」だと捉えられていた。しかし、2000年以降になると、他社との生き生きしたふれ合いも重視されるようになり、「主体性」が他社との交流・連携の意識や能力を身に着けるための概念へと転換してきたという。

 第3章「教育政策における『主体性』——育成すべき人間像と育成方法の変遷に焦点をあてて」では、文革終結後の1977年までさかのぼり、2010年までの約30年間、中国の教育では国を愛する社会主義の建設者と後継者の育成が一貫して目指されていることが指摘された。他方、社会主義の建設者や後継者として必要とされる能力の捉え方は、時期によって異なっている。つまり、①「回復再建」期(1977~1984年)には、基礎知識や基本技能を身に着けることのみが重視されていたが、②「迅速発展」期(1985~1996年)に入ると、思想道徳の素質とともに創造的精神や実践能力を包括した科学文化的素養の育成が重視されることとなった。さらに、③「改革創新」期(1997年~現在)の現在では、自ら考え、自ら判断し、進んで創造する意欲と能力を持ち、他者と協調する能力を持つ人間が育成すべき人間となっている。

 第4章「課程政策にみる児童『主体性』——国語科の教育目標・内容と教科書の分析を中心に」では、小学校における国語科を事例に、国語の課程標準(日本の学習指導要領に相当)および教科書の分析が行われている。その結果、国語科は国語の基礎知識・基本技能の習得とともに政治思想教育の目標の実現が、課程政策を策定する際の動かぬ二本柱となっていることが指摘される。また、2001年に制定された課程標準では、国語学習における児童の「情感・態度・価値観」や「学習過程・方法」について注目されるようになったという。とくに「読み」の目標では、児童の主体的な参加を促すため、自らの情感に基づく体験等について他者と討論するといった活動が示されるようになり、そうした「社会性」の育成が重視されるようになった。他方、依然として「愛国主義の感情、社会主義道徳」を育成するといった従来の思想教育が、国語教育の目標として重要な位置づけを占めることも指摘されている。

 第5章「教育実践における児童の『主体性』——小学校における国語授業の事例研究」では、小学校6年生の「マッチ売りの少女」の授業実践を事例に、「主体性」を尊重する教育理念をどのように教育の現場で反映しているのかが分析されている。その際、各単元の目標や授業を進める際の留意点を詳細に解説した『教師教学用書』も分析対象としており、同書では少女がマッチを擦るたびにいろいろな幻想を見た場面と、少女がおばあさんと一緒に飢餓や苦しみのない彼方へ飛んで行った場面の栂重点的に取り上げられている。ここでは、少女は抑圧され、悲惨な生活を強いられている同情すべき存在であり、「人道主義的精神」や「同情心」といった特定の価値を児童に意識させることが単元の目標とされている。また、教師の指導言や教師と児童との言葉のやりとりの分析から、教師の発問は作品における事実の確認にとどまるものであることが明らかになった。つまり、児童一人ひとりが登場人物の少女になりきって想像したりするのではなく、「なぜ、こんな時、少女は暖炉を見ましたか」、「人は寒いとき一番ほしいのは何でしょうか」という教師の指導言によって、児童の想像は教師に導かれたものになるというのである。そのため、結局のところ、児童の読みは形式的、受動的なものにとどまってしまう。また、児童の発言に対して教師がフィードバックする際、児童が「同情心を持つ」という特定の価値を自ら主体的に選び取るよう仕向けていることが明らかになった。さらに、教師は1つの発問に対して多数の児童に発言を求めておらず、ほぼ全授業課程において、教師の指示や発問、およびそれに対する児童の応答が中心となっており、児童館の対話や討論はほとんど見られなかったという。つまり、教育政策で掲げられる「自ら考え、自ら判断し、進んで創造する意欲と能力を持ち、他者と協調する能力をもつ人間」という育成すべき人間と、実際の教育実践ではずれは存在するというのである。

 著者も「現在の中国では、教育実践において、『主体性』を尊重する教育理念がまだ整えられていない」(158頁)と指摘するように、教師の力量不足や限られたか\学習時間数というカリキュラム上の問題に加え、いくら教育改革を行っても、結局、政治思想教育という目的を達成させるために、教室では従来通りの教授方法が採用されてしまうという根源的問題が存在する。そうだとすれば、こうした中国教育の揺るがぬ前提条件となる思想教育が、どのように国語科において実践されているのかをより鮮明に看取しうる題材を取り上げることはできないだろうか。すなわち、中国の主体性教育には、国家社会への貢献という「社会性」が常に投影されているのであれば、「マッチ売りの少女」の他、社会の発展や社会主義祖国への貢献に直接かかわる単元も取り上げ、無謬とされる価値観でどう子どもたちを導き、堂愛国主義の感情を育んでいるのか、そういった分析がもうひとつ別に行われたなら、「中国的主体性」の育成が読者にはより容易に理解できたのではないかとも思われる。

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