【書評】小原優貴著『インドの無認可学校研究』
比較教育学研究第50号 p.246 書評 より
南アジアの教育研究をするとき、全ての研究者が意識しなければならないのが、制度の実態と乖離である。制度・政策の立案側では、世界の最先端のトレンドに敏感で、法制度にはきらびやかな言葉が並ぶ、たいそう立派なものができあがる。しかし、実態の側が、その政策変化に対応できるわけではない。彼らには彼らの世界があるというわけである。有名なカースト制度はその典型で、憲法でカースト差別を禁止していることになっているが、実態はむろんそういうわけではない。小濃杜甫実態に目を凝らすと、カーストを乗り越えようとする人々もいれば、カーストに寄り添う人々もおり、理解するにはかなり複雑な関係が立ち現れる。しかしこの複雑な、制度と実態の行間を読み取っていくのが南アジアを研究するときの面白さといってよい。
そして、「教育制度と実態の乖離」についての重しロアを感じさせてくれるのが、本書『インドの無認可学校研究—公教育を支える「影の制度」』である。筆者である小原優貴氏は、京都大学大学院修士課程在籍時よりインドを対象に比較教育学研究に取り組み、2012年に京都大学に博士学位請求論文を提出した。現在、東京大学に属し、比較教育学と南アジア地域研究分野において活躍する若手研究者である。本書は提出された博士論文を改筆、出版したものである。
序章において、筆者は、無認可許可学校の定義について、人的資源開発省の国立教育研究訓練協議会の調査から、「(政府あるいは政府に認定された組織などに)認可されていないが、認可学校と同じ形態で正規のクラスを運営している学校」と導き出している。また、それらを完全無認可学校、部分無認可学校、チェーン型無認可学校などの類型化を行っている。
細かいことはさておき、日本人的感覚からいえば無認可学校というのは、終了証や学位授与権を持たない教育機関と捉えられる。しかしインドの場合、子どもが無認可学校に通っても、きちんと終了証が取得できる「影の制度」が成立しており、むろんその終了証はまぎれもない本物である。これは、雑ぱくにいえば無認可学校で学んだ生徒は、認可学校に登録だけはしておき、試験も受け、一定水準を満たして合格すればより上の段階の学校に進学できるという仕組みである。また、認可条件を満たしていない学校が、政治的コネや賄賂を使い、認可学校にすることも行われている。筆者はこれを「影の規則枠組み」と呼んでいる。
第2章「デリーの無認可学校の法的正当性」では、2005年子どもの権利保障に取り組むNGOソーシャル・ジュリストが無認可学校の閉鎖を求めて訴訟を起こした様子が描かれている。デリー高等裁判所では、無認可学校の法的正当性が否定されたが、無認可学校を擁護するデリー私立学校協会が反k津の執行猶予を求め、最高裁判所に特別許可証を提出するに至った。そしてデリー教育当局は、協議を行った結果、「無認可学校は貧困層の子どもの教育ニーズに応えており、これらの学校がデリーで存在する余地がある」という判断をした。最高裁判所はこの報告を受け、疑念を示しつつも2009年4月、無認可学校の法的正当性を認めた。ただし、6ヶ月後に政府は無認可学校に関するガイドラインを策定することを最高裁は認めた。しかしその後、政府のガイドラインは出なかった。これで公的に承認された「影の制度」として存続するに見えたが、2010年の無償義務教育に関する子どもの権利法(RTE法)が施行されたことで無認可学校は再び閉鎖の危機に陥る。
第3章では、デリーの中でも、無認可学校の2割が集中する貧困地域であるシャードラ地区の無認可学校9校を調査対象とし、第1次~3次調査(計11か月)まで行い、学校の概要、経営者の動機、教育費、入学手続き、財源確保、カリキュラム、教授言語、評価方法、教員の出自と動機、正規の学校との接点など、「影の制度」の実態的側面がつぶさに描かれている。その中で資格を持たない女性が低賃金で雇用されていること、しかし教員たちは、制度と実態の乖離を理解し、無認可学校での教育に満足を感じていることなど、フィードからしか得られない側面が明らかとなる。さらに、無認可学校の卒業生のほとんどが卒業後、認可学校に入学しているが、政府が準備した公式の進学・編入学のための公式の制度を回避し、認可学校から終了証を購入・調達する、あるいは教育行政官から不正な認可を取得する見せかけの認可学校の存在などが指摘されるなど、無認可学校の多様性も描かれている。第4章でhあ、保護者に対する質問紙調査と聞き取り調査を行い、「今の教育は昔の教育と全く違う。今は(教育によって与えられる)チャンスがある」、「自分たちの子どもには『教育を受けた子ども』になってほしい」などの、保護者の子どもの教育に対する切実な願望が明らかになっている。その選択要因が「学校が近い」、「教授言語が英語である」。「教員の質が高い」というものであることも明らかになった。また、無認可学校に行かせている保護者らは、少額であるが、子どもの教育に投資することで、機能不全な公立に行かせている保護者と自らを差別化する目的があることもうかがわせた。
そして第5章で、2010年に施行されたRTE法によって「影の制度」の中心的存在である無認可学校がどう影響されるのかを分析した。事例検討の結果、デリーでは厳格な認可条件が維持されたが、私学協会が見直しを要請し、敷地面積に関する認可条件を緩和することに成功していた。しかし、民間セクター内での自己統制が試験的に実施されてきたアンドラ・プラデーシュ州数百ノ無認可学校が閉鎖に追い込まれたなどが明らかになった。
終章では、インドの教育に終えkる公教育制度と「影の制度」の役割と課題、展望が検討され無認可学校の実態的正当性がある限り、「影の制度」は消滅しないと結論付けられ、他国においても無認可学校が存在していることが指摘されている。
現在、主に経済面で「のし上がるインド」の教育熱は非常に高まっており、研究も多くなってきている。本書は、人々の教育熱が、具体的に学位や終了証に結実するため、編み出された「影の制度」という方法論を読者に提示してくれている。これが本書のオリジナリティの部分であるといえよう。
また、本書の優れた部分として、研究の展開可能性の広さが指摘できる。筆者は、あえて分析対象から外しているが、宗教学校やマドラサ(イスラーム)やパートシャーラ―(ヒンドゥー)もまた立派な「影の制度」である。これら宗教教育という別分野での比較分析への発展も期待できるし、筆者自身は終章で、他国の「影の制度」との比較可能性を示唆している。こうしてみると、もはや「影」というには憚られるほど多くの「別の」「影の制度」が機能しており、インド亜大陸を考察するだけでもライフワークとして成立しそうなほど多様性があることが容易に想像できる。
そうした展開を期待させてくれる本書であるが、それは筆者が苦労してデリー高等裁判所調査、シャードラ地区の学校調査、保護者への聞き取りなどを丁寧に実施し、まさにフィールドレベルにおける「実態としての教育」と、教育法制度に現れる「ステートメントとしての教育」との往還を実証レベルで試みたからこそである。教育という、人々の中でも特に重要な「価値」を扱う比較教育学では、この制度と実態の往還作業は、特に重要な構成要素である。
評者はさらに、本書の先にある議論として、影の教育制度に学んだ生徒たちがどういった進路を進むのか、またフィールドワークからの知見では、英語による教育に価値を見出しているということであったが、実効性はどういったものになっているのか、など、本書を起点に多くの研究抗争を発展させることも可能なのではないかと感じた。
ただし同じ南アジアをフィールドとして歩いている者としては、本署への注文もある。デリー北東側のシャードラ地区は、ムスリム地域である。このため筆者の調査した人々の多くはムスリムであったと考えられる。これは筆者が制度的側面に議論を集中させすぎたからだと推測するが、本書の中ではインドにおいてムスリムがどういった立場なのか、インドムスリムの教育観がわからないままに議論が進んでいるため、シャードラ地区の教育的描写は、おそらく限定的なものになっているだろうということである。
むろん、このことをもって本書の価値が減じられるものではないが、南アジアの地域的多様性の高さは、制度と実態の乖離と並んで、この地域を研究するときの「面白さ」であると同時に「厳しさ」でもある。これからも筆者には、本署出版後に出てきた、多くの課題に向き合い、さらにシャードラ地区の教育調査を継続してほしい。
(広島大学 日下部達哉 評)
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