【書評】河野員博著 『戦後日本の教育構造と力学―「教育」トライアングル神話の悲惨』
教育社会学研究 第99集 2016年 日本教育社会学会編より
書名をもとに、明示的な一貫性のある分析枠組みによって戦後日本の教育を歴史的視点から分析した著書だと思って手にとると、想定と実際との距離感に戸惑うことになるかもしれない。書き下ろしの序章「ウォルフレンの日本教育論」を除くと、本書は1979年から2013年にかけて学会紀要や大学紀要、編著集などに既発表の論考12編を、テーマのまとまりごとに「教育と病理」(1章~4章)、「教育と歴史」(5章~8章)、「教育と科学」(9章~12章)という3部構成に配置した論文集である。初出は1979年から1992年までが7編、2001年以降に発表されたものが5編である。その他にコラムとして、1986年から2000年にかけて学会紀要等に掲載された書評5編と小文2編も収録されている。
もう少し初出刊行年によりつつ本書を概観しよう。「現代日本が抱えているトレンディーな教育問題に切り込」んだという第1部「教育と病理」は、3章「世代論から見た教育」が初出79年である以外は、いずれも2001年以降の発表である。また、「日本の近現代史から幾つかの素材」を「俯瞰的な立場から眺めてみた」とする第2部「教育と歴史」は、青年将校運動を扱った5章「2・26事件に見る世代論的考察」と6章「日本占領とGHQ知日家群像」が1980年代に書かれる一方、敗戦直後の大学改革における一般教育の導入を論じた7章「大学一般教育の戦後史」と、1960年代の高校多様化政策を題材にした8章「高校多様化と教育政策の迷走」は2004年、2013年の初出である。他方で、「教育と科学の関係」に対して、「特に教育的眼差しを念頭に置きつつ、大胆に迫った」という第3部所収の論考は、すべて1992年以前に書かれている。
こうして見てくると、著者の「30年以上に及ぶ大学教員」としてのキャリアのひとつの区切りとして、これまでに書かれた教育関連の文章を集めた書物と理解してしまうのがいちばん簡単かもしれない。副題の文言も、本書各部の配置すべてを覆うとするには無理がある。「「教育」トライアングル」は本文中にはない表現だが、序章で紹介されるウォルフレンが<システム>と呼ぶ、政界・官界・財界を中心とした「日本の権力構造」のことか。それが「神話」であり、「悲惨」というのは、序章や第1部で論じる現代日本の教育「病理」や第2部7章・8章が指摘する教育政策の「迷走」や「形骸化」のことか。こうした表面的な印象とは異なる時限で本書の射程(とその切断、限界)を可視化するには、著書の(サブ)タイトルや「便宜的」な3部構成から離れて、組み換え、読み込む必要がある。その際の鍵は、3章「世代論から見た教育」となるだろう。
評者の見るところ、著者の方法の核は「世代論」的考察である。79年『教育社会学研究』初出の3章は、それを理論的に整理した論考である。時代/年齢/世代効果とも渾然となった。「世代」変数を社会学的な説明に持ちだす「一抹の不毛性」は著者もむろん承知であろう。にもかかわらず「世代」を方法概念として彫琢するのは、それが「人間形成」の過程を織り込み、社会変革に向けた思想・運動の動態をとらえる潜勢力を備えるからである。社会学アプローチにみる「教育学的視点」とも著者は言う。第3部「教育と科学」の諸章が、「認識主体としての科学者」や「理論家」の「生身の人間」としての「個人的な体験に基づく価値や感情」「情念」「思い入れ」「葛藤」に焦点化した科学批判や社会理論、なかんずくR.コリンズの葛藤理論を注視するのも、そのコロラリーである。
世代論的考察は必然的に歴史的アプローチに近似する。個々の人間形成を基盤としつつ思想・運動を担った諸アクター間の葛藤や「力学」、典型的には政治/政策過程の歴史的解明へと通じるだろう。だとすれば、第2部5章が青年将校の「心情」「主体的意思」や「思想的通奏低音」から青年将校運動に迫り、6章が占領期における「人間の交流」を舞台とする「知日家の誕生」を追うのも納得である。ここまでがすべて1992年以前の初出。その後2000年代に入り、第2部7章・8章のような、特定の教育政策の形成・導入の過程に介在した「政策アクター」間の「種々のベクトルとその背景」に照準する歴史研究^が書かれることになる。実際、8章では60年代文部官僚における「内務省/文部省」「戦前派/戦後派」といった「世代論」的仮説も提示される。
この延長上に序章が召喚されるのだろう。「超越的理念」なき日本の「権力をめぐる政治構造力学」は、社会各層を「高度に政治化された存在」とする。「責任無きもたれあい構造」のもと、曖昧模糊とした裁量と運用のレベルですべてが交渉・調整される。教育現象は、この<システム>から派生する。第1部「教育と病理」の3章以外の諸章(2001年以降刊行)での議論や本書(サブ)タイトルが示すのはその帰結である、というわけだ。
このように本書の論述地図を組み替えて改めて感じるのは、「世代」論的考察の魅力と危険である。これまでの教育(の歴史)社会学が経済/労働の問題系との接続に傾斜し、政治の問題系とやや隔たりがあったのは否めない。歴史負荷的な個々の生活体験に根ざした思想や「情念」なるものに準拠しつつ、具体的な闘争や葛藤、交渉の過程を説明したくなる誘惑はつねに在るし、3章はその有効性を確証しようともする。だが具体的な歴史分析に際し、主張を支える実証的根拠は十分か。その根拠の厳密な突き合わせを欠いた「世代」論的考察が、通俗的な教育/社会評論と明確に差異化するのは―いまさら言うまでもなく―難しい。
それでもなお指摘すべきは、「葛藤理論」的な歴史叙述とはそもそもそういうものであろう、ということだ。35年以上も前に書かれた3章は、「世代」を、思想史でも運動史でもなく、教育現象を分析する<歴史>社会学的な方法概念として鍛え上げようとした試論として、いま読み返されてみてよいのかもしれない。
(筑波大学 森直人)
◆A5判 272頁 東信堂 本体3,400円