【書評】王帥箸『中国における大学奨学金制度と評価』
教育社会学研究 第100集 p.372より
大学の会議で、この学生がこの時期までに学費を納めない場合には退学になる、というような報告を毎年聞いている。ゼミ生でもない限りその詳細な理由を知る立場にないが、4年生になってという学生もおり、なんとかならないのかという思いと、何もできないことへの無力感を感じている。先日、大学生への給付型奨学金のニュースがあったが、誰にどのような奨学金を誰が出すのかは大変難しい議論となる。こうすべき、と簡単に言えないところがあり、理論的な研究と実証的な研究の両方が求められる分野といえよう。
本書は中国のある地方を対象に、大学への奨学金の効果を実証的に分析したものである。筆者も再三記述しているように、中国でそうした調査をすることはとても難しい。幾多の制限がある中での果敢な挑戦は、大変価値があるといえよう。中国の現状や調査の限界についても丁寧に誠実に説明されており、納得して読み進められることは大変好感がもてる。
先行研究と比べたとき、本書の特徴としてあげられるのは、こうした研究でよくとりあげられる中央主管の大学ではなく、規模の上では圧倒的多数でありながらもこうした研究の対象となってこなかった地方主管の大学に着目したことである。また、高校生の進路選択の時点と大学在住中の2つの時点に着目したこと、給付型奨学金と貸与型奨学金を区別して分析したこと、独立学院という新しい機関について分析したことも重要な要素となっている。
本書の構成は以下の通りである。序章では奨学金の論点について簡潔に整理した上で、中国の特徴を説明し、そこから導き出された研究枠組みを示している。第1章では中国の奨学金制度の変遷と現状に加えて、奨学金の種類、その申請から受給までのプロセスなど中国独自の状況を解説している。中国ではもともと大学に学費がなく、さらに奨学金が支給されていた。しかし1989年から一部の大学で始まった学費の徴収は、その後すべての機関に拡大し、急激に高騰していった。これと同時期に貸与型奨学金が登場しているが、筆者はこうした一連の奨学金政策は学費の高騰とは連動せず、後追いする形で進んでいったと指摘する。
第2章から第5章までは本書の核となる実証分析の部分である。第2章では高校生調査をもとに、貸与型奨学金が進路選択に与える影響を分析している。都市出身と農村出身、家庭所得の高低がその進路調査に影響を与えており、家庭所得の低い学生があえてランクの低い進学先を選ぶ姿や奨学金を必要とする生徒ほど必要な情報が届いていない状況が描かれる。第3章から第5章は大学生調査をもとに、奨学金の配分、奨学金の有無・種類による学生生活や進路希望への影響について分析した上で、中国の奨学金政策を給付型奨学金と貸与型奨学金の観点から総合的に考察している。そこでは、地方大学では支給金額の少ない給付型奨学金が多いこと、信用制度が整備されていない中国で家庭所得を証明することは難しく、実際には学業成績が重要な要素となっていることを指摘する。また、学業成績に重点を置いた給付型奨学金は支給額が高く、学業に専念する効果が確認できた一方で、家庭所得に重点を置いた給付型奨学金の支給金額は低く、生活水準を向上させるほどの効果が見られないことを示す。また、貸与型奨学金は年間の授業料と同額を借りるケースが多く、家庭所得の低い学生にとって高騰した授業料が大きな負担となっていることを指摘している。
これらを踏まえて終章では、実証分析の結果をまとめた上で、教育機会均等の促進と学習高度化の達成という政策意図に対して、その達成にはほど遠いという結論を出す。その上で地方の教育機関における奨学金の意味について考察し、今後研究していくべき課題を示している。
本書の基本的な流れはシンプルであり、モデル化し推定した上で、実証的に分析する手法をとっている。特徴はすでに述べた通りであり、地方大学に着目したこと、独立学院を含んでいることなど、中国を研究対象とする者でもなかなか実感のわいてなかった部分が次々と明かされていく。本書には文字とモデル図や数値が並ぶだけで、例えば子どもたちの姿が映った写真があるわけではないが、中国の地方に住む学生や生徒がどのようなことに悩み、どんなことを考えているのか、大変リアルな形で、厳しい現実をさまざまと感じさせてくれる。特に高校3年生への調査では、学業成績が優秀でありながら、家庭状況から希望の進学先や進学自体をあきらめる姿が生々しく示される。そうした賢い子どもたちであるなら、おそらく小さい頃から親の姿を見て現実を知っていただろう。そうした現実がありながらそこまで頑張ってきたことに心打たれ、またその背景にはそうした境遇を知ってしまったがゆえに、もっと早い段階で勉学の道をあきらめたであろう子どもたちの姿がみえてくる。また独立学院に関する分析では、この学校のもつ、学費の高さだけではない異質性がたしかに垣間見えてくる。
さて、このようにこれまで私たちが中国について持っていた感覚を実証的に示してくれる本書の価値は間違いなく高い。それ故に、評者がもっとも気になるのは、今後、である。本書の研究はたしかに、いくつかの重い扉を開く、壁を乗り越える役割を果たしたものであると評価できる。その上で著者に聞いておきたいのは、その先に何が見えているのかということである。調査の限界として全国レベルのデータ不足をあげているが、全国的なデータを集めてみても、でてくるのは予想できるような結果である気もする。むしろ中国における奨学金研究については、もっとミクロに、高校生の進路選択や地方大学生のデータを増やしていくことに意味があるのではないか。そんなことを思えるほどに、地方の現実に目を向けることの重要性を感じさせてくれた研究であった。
(長崎大学 楠山研 評)
【東信堂 本体価格5,400】