【書評】堀雅晴箸『現代行政学とガバナンス研究』

【書評】堀雅晴箸『現代行政学とガバナンス研究

立命館法學 2017年第2号 p.302より

 

はじめに現代行政学

本書は、堀雅晴(以下筆者という)によるこれまでの行政学研究およびガバナンス研究を集成した労作である。2000年以降に上梓された比較的に近年の論考を基にまとめられているが、扱っている対象の歴史は長くその領域も大きく広がっている。本書は、「はしがき」及び「あとがき」とともに、序章と終章を合わせて8章の構成になっている。なお、参考文献と索引が付され、「はしがき」の6頁を別にして全体で220頁となっている。

本書が目指しているところは、タイトルにも端的に示されているとおり現代日本における行政学の研究に関する著者の深く鋭い問題意識による。日本において行政学がいかにして発展してきたのかを踏まえつつ、とりわけ日本の行政学が多くの範をとってきた米国の行政学の展開に触れながら、その根本的な問題意識として「現代」の行政学は日本において何を研究すべきかを探っている。その省察の主たる手がかりが1980年代以降欧米で活発に研究が進み始めたガバナンス研究であり、そこにおけるガバメントからガバナンスへという研究の焦点の移行を、行政学における今後の研究課題として指摘するのである。それを筆者自身は、「新天地開拓型行政学」と呼んでいる。

あらかじめ本書が高く評価されるべき新規性や先進性について、書評をする側の視点ではあるが、簡単にまとめておきたい。第一に行政学とガバナンス研究の関係に焦点を当てたこと、第二に日米の行政学とその関係を俯瞰的に論じていること、第三にガバナンスの理論研究の展開を将来展望まで含めて丹念に追及していること、第四に理論的枠組みに基づくガバナンスの事例分析が展開されていることであり、いずれも貴重な業績を上げているといえよう。本書の全体像は既に「はしがき」において的確にまとめられているが、本稿を執筆している評者(以下、評者という)なりにその内容を吟味してみることにしよう。

1.本書の構想:「はしがき」から

本書は、現代行政学がその出発点としたアメリカ行政学の誕生から今日に至るまでのその歴史の中で、国家のあり方を研究してきたこと、そして20世紀後半までは行政国家の機能拡大に着目してきたこと、さらに世紀末からはグローバル化のインパクトの下に国家それ自体の問い直しが始まったという時代認識に基づいているという。そして本書の課題として、日本の行政学のこれまでの姿と課題を明らかにし、その未開拓分野としてのガバナンス研究の両者の検討をすることで、行政学が主たる対象としてきた官僚制と民主主義のガバメントの諸問題と向き合う新たな視点を確認しようとしている。その背景にある問題意識は、日本行政学が古典的なガバメント研究の枠組みにあり続けているという認識から、ガバナンス研究の視座がその新たな方向として求められているというのである。

「はしがき」は、本書の構成と狙いを端的に表そうとしている。多少なりともガバナンス研究の分野に関心を持ち先行研究に触れた経験があれば、本書のもくろみは「はしがき」を見れば直ちに了解可能であろうが、もう一方では一般的に見て分かりやすい導入ないしは問題提起となっているのかどうかは不確かである。そこでは日本の行政学ないしは先行研究のこれまでの課題ないしは問題点と、それに対応するガバナンス研究による新たな研究展開の可能性が示唆されるべきであるが、どちらかといえば後者の論点に重心がある。

2.行政研究とガバナンス研究の交錯

「序章 ガバナンス研究の見取り図」においては、現代の複雑で解決が困難な政策問題を考えるためにはガバメントではなくガバナンスに着目しなければならなくなったことあげて、ガバメント研究からガバナンス研究への転換を示唆する。そこにおけるガバメントとは政府と国民との関係性について独占的で閉鎖的なヒエラルキー的・垂直関係を前提としているのに対して、ガバナンスとは関係性の態様やその有無と関係なく非独占・開放的なノン・ヒエラルキー/へテラルキー的/水平的関係にあるというこのガバナンス概念は筆者はそれを整理して学問的な位置づけを行う。その上で、日本行政学の思考方法は、強い執行部とトップダウンによるいわばガバメント型のものが従来型の研究の中心になっており、弱い執行部とボトムアップによるガバナンス型の発想は少ないとされる。

序章の目的はガバナンス概念についての整理を行うとともに、行政学研究との相互関係を明らかにすることを目的としており、いわば「はしがき」の意図を明確にする役割を持っているはずである。とはいえ評者からすれば、その記述はガバナンス研究におけるガバナンス論の視点が中心であり、行政研究との有意味な関連性は必ずしも明らかではないように思える。もちろんその役割は、本来は、第1部の第1章・第2章に委ねられているといえるかもしれない。

3.ガバメント研究を主としてきた行政学の未来

本書「第Ⅰ部 ガバメント研究としての行政学」は2つの章からなっている。「第1章 日本の行政学の過去・現在・未来」は、行政学の発展過程について近代国家形成との対応関係を意識しながら鳥瞰する。研究の発展過程を時期区分し、明治時代に大学の科目として行政学がおかれた「創世記」、その後の太平洋戦争前後までの行政研究が多様に広がる「形成期」、さらに1990年代までの日本の行政学の完成を試みる「確立期」、そして90年代以降の「過度期」とする。とりわけ過度期とされる今日の日本行政学においては、従来の先行研究あるいはガバメント論の基本的な前提が形骸化していることが指摘される。

本書は、日本の行政学においては、それを国産化すること、総合化して学際的市民的ディシプリンとすること、総合管理すること、NPM 型の公共経営研究化することなど多様な方向付けが示唆されるとともに、日本行政学とその中でも特に豊富に研究されてきた地方自治研究を合わせて内容を豊富化する方向が目指されているという。

評者の日本行政学への問題意識からすれば、政治学や社会学はもとより公共経済学、経営学、経営工学、意思決定論、組織化学など多様な学問分野の発展との関係において今日までのそして将来の行政学があると考えているが、その際の学問体系としての行政学がその目的、対象と方法をどのように再構築するのか、あるいはしないかという点に関心がある。これに関していえば、日本の地方自治体研究は学問方法的に見てもより自由であり、国産の行政学としての制度学・政策学・管理学の合成という以上に、自治や民主主義そして市民社会にかかわる多様な視点が登場して行政学を豊かにしているし、むしろ地方自治研究の中には行政学が当面している隘路を乗り越える視点が多く含まれているかもしれない。

「第2章 現代行政学の自画像——現代米国行政学の自画像を手がかりに——」は、日本行政学の諸研究がガバメントの実態やその変化の中で学問的諸前提の動揺に直面しているとして、日本がこれまで学んできたはずの米国行政学の議論を参照しながら転換期の行政学像を描き出そうとする。米国行政学の議論から、Peters and Wrightは、行政組織の自己完結性やヒエラルキー、負担と便益の同一性、主権者に対する上向きのアカウンタビリティ、公務員制度の標準的エスタブリッシュメント編成、政治と無関係な公共サービスという従来の諸前提が形骸化していることを指摘し、そうした中で NPM や公共選択論、ゲーム理論や実施過程研究、エンパワメント論やネットワーク論、政策分析が登場し研究を豊富化させているという。これに加えて、米国行政学の特徴を帰納的方法やパラダイムの多様性、政治思想の拘束性という観念から整理し、その研究の豊かな方向性を確認する。

日本行政学については、日本における研究が方法的には米国に触発されながらも、ヒエラルキー型の強い執行部によるトップダウン行政モデルに足場を置く傾向があるという。筆者の主張としてはそれとは対極的な権力バランス型の弱い執行部におけるボトムアップ行政モデルに基礎を置く研究の必要性が指摘され、それらがガバナンス研究に結びついていくというのである。

評者の管見からすれば、米国の行政学をどのように整理するのかは論者によって多様であるが、実務や実践に強く触発されてきた行政研究はその特徴であろう。とりわけその中でも、行政のサービス改革、財務改善、能力開発や倫理には焦点が当たりやすい。研究の中には強い理論志向を持つものもあるが、実務やその教育にかかわる研究をどのように位置づけるかは、日本の行政学にも共通して相変わらず大きな課題になっているように思われる。

4.ガバナンス研究としてのこれからの行政学

「第Ⅱ部 ガバナンス研究としての現代行政学」は、2つの章から構成される。「第3章 ガバナンス研究の新展開」においては、ガバナンス研究が世界的な広がりを見せる中で、あらためて行政学に基礎を置く関連学説上の論争を整理する。ガバナンス研究の背景には、計画理論や政策研究、プルラリズムやコーポラティズム論の影響などから、政策コミュニティやネットワーク論が結実し、従来型のガバメント論の制約から解放されたガバナンス研究の可能性を開いたとされる。代表的な論者である Rhodes によるガバナンス概念は、組織間の相互依存性、ネットワーク・メンバー間の継続的な相互作用、ルール化された相互作用、国家からのかなりの自律性によって特徴づけられる。また Peters and Pierre によれば、社会に統一的な方向性を与えるものとして、実体概念としてはガバナンスの構造とプロセスを、そして分析概念としてのそれを考えている。ガバナンスの類型については、コーポレート・ガバナンス、NPM ガバナンス、グッド・ガバナンス、自己組織的ネットワーク・ガバナンス、社会システム・ガバナンスなど、先行研究や諸論理に基づいた区分が紹介される。

さて Peters と Rhodes とがガバメントとの関係において主張する論争点、「国家中心的アプローチ」か「ガバメント無きガバナンス」なのかについて、前者は、論争自体が非歴史的であり、ガバナンスは目標を設定し紛争を解決することであるとする。そして、ガバナンスはゼロ・サム・ゲームではなく、適応力あるプロセスであり、差異化する活動のことであって、公的アカウンタビリティが必要だとする。これに対して「ガバメント無きガバナンス」の主張は、ガバナンスという新しい説話が必要だとし、非歴史的な理想形として描くことに意味があり、その際の伝統や誰が語るかによって解釈と説明は変わってくるとする。中枢管理機能の操作能力が低下しネットワーク管理がうまく働かず、代議制民主主義の欠陥が顕在化する事態に対してネットワークを適切に管理することができるとすれば、ガバナンスを解釈できる個人の能力に依存してネットワークを作動させることがそのガバナンスの失敗を回避する方法とされる。

「第4章 ガバナンス研究の回顧と展望」では、第3章の論争がその後21世紀にはいって以降どのように考えられ整理されていったのかを明らかにする。Klijin はガバナンスをマルチ・レベル・ガバナンスとネットワーク・ガバナンスに限定して考えるべきだとして、そこではガバナンス・ネットワークこそが研究の対象になっているという。そこでネットワーク管理の重要性、民主主義や議会制との緊張関係、そして意思決定の複雑性への対応などに焦点を当てている。次に、新制度主義理論に基づくとされる Torfing は、欧州のガバナンス論争を整理し、国家が後退する中で社会と経済を操縦するプロセスとしてガバナンスを考えること、そのガバナンス・ネットワークは相互作用型ガバナンスと概念定義できること、その研究は多様で新たな発見に満ちており合意を求めて研究が進行中であるとする。

Bevir and Rhodes は、反基礎付け的解釈論の立場から、旧来のガバナンス・ネットワーク論とその後のメタ・ガバナンス論を批判する。これらのガバナンス研究は国家による統制を前提としトップダウンによる視点を持っており、ガバナンスのあり方に集権化さえ展開するものだとしてその破綻を宣告する。そしてそれらの欠陥に対して、脱中心化型ガバナンスを主張する。モダニスト的・経験主義的ストーリーに対して、解釈論的アプローチを試みるのである。そこにおいては、所与の因果を構造とする国家論ではなくて、無国家型国家理論として多様な諸信条と諸伝統、多様な諸行為と諸実践によって、偶発的に国家ができると主張している。この立場に立つことによって、「国家」、「制度」、「構造」という用語がもつ決定主義、物象化、そして基礎付け主義を脱却して、それらを「いかに説明すべきか」という本来の問に立ち返ることができるという。もちろん反基礎付け主義も異同があって多様であり、彼らの主張は、フーコーのガバメンタリティやグラムシ流のポストマルクス主義ではなく、S・ホールらカルチュラル・スタディーズ派の社会的ヒューマニズムの系譜にあるという。

第Ⅱ部の両論文は、ガバナンス研究としては「ガバメントからガバナンスへ」の理論的な展開を中心にその論争をも含めて検討がされており、その点ではきわめて重要な論点が網羅的にかつ論理的に論述されていることから、研究の価値としてはきわめて高いと思われる。ところでガバナンス研究自体は、今日的な用法の混乱もあるが、筆者も認めるように多くの研究実態があり、それによってガバメント・ガバナンス並立論に傾斜しがちかもしれない。しかしその一方では、欧米先進諸国の分析的な事例だけではなく南の国々における開発政策事例などにかかわる実体的なガバナンス研究が進むことで、政府のガバナンスだけではなく、企業ガバナンスやグッドガバナンスあるいはリスクガバナンスなど、その広がりやそれらの倫理的な意義が問われるとともに、そうした実態からのガバナンスの理論的な研究への反映が進み始めているようにも思える。こうした実体論にかかわる研究系譜をどのように位置づけていくのかは理論的にも重要な課題であろう。なお第3章と第4章では、理論の性質もあって、行政学としての意義や関連性への言及は弱い。

5.ガバナンスの事例研究とその意義

「第Ⅲ部 事例研究からのガバナンス研究」は2つの章からなる。「第5章 大学界のガバナンス研究」においては、ガバナンス研究を踏まえつつ前段では、2001年中央省庁改革を主導した行政改革会議が「公共性の空間の官独占」批判を行ったことに関して、その議論における国民を統治客体意識と依存体質としてきたその過剰介入を改めるとしたこと自体を批判的に考察して、それらがガバメントによるガバメント改革であったことを指摘する。そして改めてガバナンス改革の可能性を事例研究の中に見出すべく、大学の制度や運営全体にかかわる大学集合ガバナンスと、各大学の管理や数学に関する大学単位ガバナンスの中に探求するのである。

具体的な事例としては戦後改革期における「大学法試案要綱」を取り上げている。戦後民主化と逆コースの狭間にあって、多方面からの反対を受け立法にはいたらなかった。当該要綱は、国立大学、中央管理機構および財政を主に規定するものとなっていた。大学のあり方については大学設置委員会(設置認可)と大学基準協会(認証評価)が設置されることになっていた。結果的には大学法はできず、試案要綱が想定していたガバメント型の管理強化とガバナンス型の社会的責任強化はともに成立しなかったというのである。

「第6章 スポーツ界のガバナンス研究」においては、欧州のスポーツガバナンス研究を先例としながら、そのガバナンスを官僚的形態、ミッショナリーな形態、起業家的形態そして社会的形態とし、社会的形態をもって多様なパートナーの影響力行使があるガバナンス研究の対象と捉える。その研究の視点としては批判的実在論や、反基礎付け主義的なものも参照されているという。現状については、国際オリンピック委員会のガバナンス、欧州委員会のグッドガバナンス原則、ユネスコのスポーツガバナンスそして日本の事例が紹介される。日本のスポーツガバナンスが、競技団体の運営強化つまりはマネジメントに重点を置いたものであり、欧州等と比較して講義のガバナンスとその中のグッドガバナンスを考えていない点に特徴があるとしている。その上で、日本でもスポーツにおけるガバナンス・ネットワークとその動作にかかわるメタガバナーの構想が必要だとしている。

評者からすれば、2つの事例はこれまでの諸研究とはいささか異質に感じられるところもある。というのも実態を扱うとしても理論的な意義を問うことが筆者の主眼にあると考えるなら、ここには有用と思われる示唆は少ないからである。その一方では実体概念としてのガバナンスの一側面をガバナンス研究あるいはその用語法を通じて明らかにしていると考えれば、現状分析の中から読み取るべき理論的な意味については重要な指摘に満ちている。とりわけ近年においては大学への中央政府の管理強化やガバナンス強化と社会貢献が強調されている問題、部分的に触れられているが地方教育行政における長(執行機関)による管理の強化と地域社会との関係強化の課題、日本のスポーツ界における疑惑問題への対処や2020年オリンピック・パラリンピックに向けた国と地方や日本オリンピック委員会と競技団体、スポンサー企業の関係問題など、まさにガバナンス研究を必要としているところが多く、その研究成果の理論的合意が大いに期待されるところである。別の言い方をすれば、これらの領域は、教育学やスポーツ経営学からのガバナンスではない、本書でいうガバナンス研究が求められている分野ということもできよう。

6.ガバナンス研究の展望としてのマルクス「アソシエーション論」

本書のまとめに当たる終章は「終章 ガバナンス研究の展望——マルクスのアソシエーション論への包摂——」である。ガバメントからガバナンスへ、あるいは「ガバメント無きガバナンス」を論じるべきガバナンス論が、現実には実態分析に偏ることでガバメント・ガバナンス並立論に陥り、本来の規範的意味合いを失っているのではないかというのが、筆者による終章の問題意識である。そのため反基礎付け主義を踏まえ、しかし批判的実在論の立場から理論構築をしているマルクスのアソシエーション論の中に「ガバメント無きガバナンス」論が位置づけられるのではないかというのが、本書の研究の展望である。ガバナンス概念として統治の態様を非独占・開放的なノン・ヒエラルキー的・水平的関係として特徴付け、マルクスのアソシエーション論の中にその概念を読み解いていこうとする。そして、「共産党宣言」、「資本論」、「暫定一般評議会への指示、種々の問題」、「フランスにおける内乱」そして「土地の国有化について」において、ガバナンス概念と関連する記述を見出すのである。

マルクスのアソシエーション論は、ガバナンス概念である「自律性」と「自己統治」を含むものであるが、その具体的な可能性をどのように見ているかについては、「フランスの内覧」つまりはパリ・コミューンを題材に詳しく検証されている。その結果、「一つの政体=複数のコミューンの発議権」に示されるように、従来の中央政府はコミューンの共同処理や代表機能に取って代わられること、そして国民国家の統一は社会に返還された諸力による社会的生産の共同作因として内在化されるというのである。

終章は、表面的には唐突感があるかもしれないし、一見して戸惑いを覚えるかもしれない。しかしながら本書のまとめとしてマルクスを扱うこの終章を置くユニークさは、反基礎付け主義による解釈を認識の基本とする本書においては論理的な帰結であろうし、ガバメントに関する筆者の主張とマルクスの方法的立場の近縁性を考えるなら当然といえるかもしれない。ただしそこでマルクスの「アソシエーション論」であることの必然性は、反基礎付け主義派の論調からは当然かもしれないが、一般的に歯やはり理解は難しい。ガバナンス研究の理論的淵源としてプルラリズムや集団論があるとすれば、マルクスからそこにいたる説明のステップがあってもよかったかもしれない。例えば、H・ラス気など多元社会論者を介在させて議論を展開することもできるかもしれない。もちろん最大の疑問は、かりにアソシエーション論にガバナンス研究が含まれるとしても、ガバナンス研究はアソシエーション論によって具体的にどのように豊富化されるのかという点であり、少なくとも Bevir and Rhodes や Jessop の議論をアソシエーション論から組み立てなおすことができるかどうかであるが、この点は今後の研究課題ということかもしれない。

7.本書の主張とその課題

評者は以上のように紹介した本書が、日本行政学のいわばその脱構築を目指す試みであること、そして日本でも徐々に深まってきたガバナンス研究の到達点を示すものであることを改めて感じさせられている。もちろん限られた紙数の本書で日本の行政学の再構築やガバナンス研究の展望がすべてできるなどということではなく、筆者の言うガバナンス研究に基づく新天地開拓型行政学の発端を明らかにできれば十分ということもできる。しかしながらそのためにも、いくつか明確にしておかなければならない相互に関連しあった課題がある。これらは、もちろん本書の狙いからすればすでにその範囲外であろうが、今後取り組まなければならない論点として、次のようなものが例示的にではあるが残されているといえよう。

一つは、行政学とガバナンス研究のかかわりについてである。行政研究の中にガバメントは中心的な対象としてあるが、ガバナンスがそうであるのかは不確実であり、繰り返しになるが行政学の目的、対象、方法といった学問論がガバナンスをめぐって問われなければならない。

二つには、確かに行政研究者によるガバナンス研究があることに疑いはないが、政治学など隣接諸学、あるいはガバナンス現象を扱う諸科学におけるガバナンス研究との異同を確認しなければならない。行政学におけるガバナンス研究の範囲をどのように定義するのかという問題でもある。

三つには、日本行政学におけるこれまでの諸研究の中で、ガバナンスやその構成要素をどのように整理し位置づけるかである。筆者は日本の行政学の学説史や研究しを丁寧に論じているが、ガバナンス論の観点からの独自の行政学を主張する以上は、従来の行政研究におけるガバナンス論の不在または存在を具体的に論じなければならない。

四つには、筆者は米国行政学の研究の潮流を整理しているが、米国行政学の展開におけるガバナンス研究の位置は必ずしも明らかにされていない。米国行政学はガバナンス研究を実態あるいは分析ツールとして、それぞれの研究の文脈に応じて自由に活用しているようにも見える。またそうした米国行政学の日本における受容がガバナンス研究をめぐってどのように進みどのように断絶したのか、その分析は必ずしも十分にできているようには見えない。

五つには、ガバナンス研究の見取り図のなかで、どこに焦点を当てるかであり、その選択の問題は大きい。ガバナンス学説史の評価が定まっているのであればそれに従うことになるが、現時点ではガバナンス研究は筆者自身が提示するように極めて幅広く、多様な観点からの研究が進んでいる状況にある。現在進行中の諸研究を含めて、いかなるメルクマールによってその焦点を絞っていくのかが改めて明示される必要があろう。

六つには、事例研究についてである。本書ではガバナンス研究という大きな枠組みはあるが、分析のための仮説やツールは詳細には示されていない。ガバナンス研究においては、実態研究が進んでいるが、その方法論については貴重な事例の上方が比較可能な形では必ずしも整理されていない実情にある。ガバナンス研究における事例研究や実態分析の方法論あるいはアプローチについても今後の検討課題といえよう。

以上のように「現代行政学とガバナンス研究」を紹介し、若干のコメントを付してきたが、現代行政学を未来に向けて開き、新たな学問体系として樹立しようという筆者の意図は、本書を通じて明確であり論理的に展開されている。しかしその構想が壮大であるがゆえに、各論部分においては、乗り越えなければならない論点も多く残されている。今後の筆者によるさらなる研究の進化に期待したい。

 

(同志社大学大学院総合政策科学研究科・政策学部教授 新川達郎 評)

現代行政学とガバナンス研究

【東信堂 本体価格2,800円】

お知らせ

旧サイトはこちら

ページ上部へ戻る