【書評】山田亜紀著『ロサンゼルスの新日系移民の文化・生活のエスノグラフィ―新一世の教育ストラテジーとその多様性』

山田亜紀著『ロサンゼルスの新日系移民の文化・生活のエスノグラフィ―新一世の教育ストラテジーとその多様性』

(A5、240頁、3200円+税)

志賀恭子(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程)

 

本書は1980年代以降に日本から渡米移住した「新日系移民」を研究対象としたエスノグラフィである。ロサンゼルスの日系人街といえばリトル・トーキョーが有名である。だが、本研究の対象地域は、リトル・トーキョーと比べると歴史は浅いが、新日系移民の集住地であり、現地でリトル・オーサカと呼ばれるロサンゼルスのソーテル地域である。著者はその地域で生活圏として日系スーパーマーケットを利用し、日本語学校で教師助手をして、新日系移民コミュニティを俯瞰しながら以下の点を浮き彫りにした。日本で教育を受けアメリカで子育てをする新日系移民の親たちの教育観、エスニック・コミュニティとエスニック・施設としての日系スーパーマーケットの役割、ミレニアル世代(1980~2000年生まれの人々)のアイデンティティについてである。

 

私は現在ニューヨーク在住の最近のトルコ出身の移民1世について研究しているが、以前まで1950年代以降から渡米移住したニューヨーク在住の「日本人」の異文化適応について研究を行っていた(「ニューヨークにおける日本人女性の移住と文化変容」『移民研究年報』第20号、2014年)。対象地はロサンゼルスとニューヨークなので違えども、私が「日本人」と定めた研究対象と、本書の研究対象である新日系移民1世は重複しているであろう。つまり、両者の研究対象は、以下の時代を背景に日本出身の渡米移住者である。第二次大戦の終戦後、アメリカは移民の受け入れを大幅に制限した1924年に制定したジョンソン=リード法を再検討し、1952年マッカラン=ウォルター法を経て、1965年ハート=セラー法の施行により移民の門戸を広げた。さらに日米外交の回復や1950年代の日本の高度経済成長がもたらした経済的な国際化により、日本出身者の渡米とアメリカへの移住は戦前より潤滑になり、自由さを増すようになった。この共通の研究対象を扱った立場として、本書について述べていきたい。

 

新日系移民に関する研究は未だに発展途上の分野であり、その開拓を遮る存在が「日系人」が付く称呼である。新日系移民を意識した研究に、L.R.ヒラバヤシ、A.キクムラ-ヤノとJ.A.ヒラバヤシ編著のNew World, New Lives: Globalization and People of Japanese Descent in the Americas and from Latin America in Japan (2002)〔邦題:『日系人とグローバリゼーション:北米、南米、日本』(2006)〕や、H.ベフとS.ギシャール―アンギ編著のGlobalizing Japan : Ethnography of the Japanese Presence in Asia, Europe, and America (2003)がある。旧日系人にルーツをもつ編著者たちによって、旧日系人がこれまで築いてきた日系人社会をグローバリゼーションという枠組みで再考した結果、新日系移民を日系人社会に包摂する挑戦がなされた。それは、理論的に新日系移民を日系人社会に包摂できたかのようにみえた。

 

だが、「日系人」と呼ぶことができる専有権は、未だに第二次大戦前に日本から渡米移住した移民にルーツをもつ旧日系人にある。新日系移民1世が旧日系移民にルーツをもつ人の前で「日系人」というアイデンティティを示すものならば、その使用は快く思われないという現実がある。本書の第7章で、30年以上もアメリカで生活をした新日系移民1世が、近所の旧日系移民にルーツをもつ人に(抜粋)「『今はもう日系アメリカ人です』」と言った瞬間、私を招いた日系人はこう言った。『あなたは日系人ではありません。第二次大戦中の、日系人に対する差別を経験したことの(が)ないからです。』」という記述がある。(p.122)(この会話では日系アメリカ人と日系人が同義語として使われている)。この記述と同じ内容を、私もニューヨークで研究対象から語られたことがある。その結果、私の場合は研究対象を「日本人」と呼ぶことにした。つまり、新日系移民は学術界ではすでに「日系人」という領域に入っているが、現実社会では旧日系移民社会と新日系移民社会は未だに並行関係にあり、新日系移民が日系人社会に入るには未だ障壁があるといえるだろう。

 

そのような旧日系移民と新日系移民の間にある並行関係について著者は十分に理解した上で、第2章で旧日系移民と新日系移民の相違点を丁寧に整理した。本研究以前の研究では、旧日系移民が築き上げてきた日系人社会のなかに新日系移民を埋め込む作業がなされてきた。本書は逆に、新日系移民が旧日系移民とは異なる立場であることを最初に示した上で、両者の整理を行った。このように旧日系移民と新日系移民を総体的に体系化されたことで、日系人社会は旧日系移民と新日系移民が対等になり、ありのままの現在の日系人社会が描き出されたであろう。従って、本書が今後の新日系移民研究の発展に寄与したことは言うまでもない。

 

本書の貢献は大きいが、次の2点を提案したい。第一、サブタイトルと序章での記述によると、新日系移民1世の教育ストラテジーが本書の主要テーマであろう。それについて、第7章で精緻なデータとして提示されている。実際、そこで浮き彫りにされたデータは、ロサンゼルスに限らずニューヨークにおいてもいえることで、全米の新日系移民の親たちの現状を捉えている。本書は文化人類学的要素が多く取り入れられているが、教育学を専門とする著者は、7章末あるいは8章でこれらの現状を教育学的視点から分析すると、新日系移民の教育社会に貢献ができるはずである。

 

第二、著者が新日系移民を研究対象にした動機はまえがきで述べられているが、現在、在米トルコ人移民1世について研究している私は、敢えて著者に質問を投げかけたい。日本にルーツをもつ移民に焦点を合わせた動機はなぜか。日本にルーツをもつ移民を研究することは、同じルーツをもつ著者のなかで同じ前提となっていないだろうか。著者は、新日系移民1世と日本語という同言語で、幾分かは同じ習慣や価値観を共有しながら聞き取り調査と参与観察を行った。本書を読むと、著者が本研究を進めるにあたり、自身と研究対象の重複した立場について十分に内省しながら客観視に努められたことがよく窺える。だが、新日系移民に関する過去の蓄積は、ほとんどが旧日系移民、新日系移民あるいは日本出身者と日本にルーツをもつ者によってなされてきた。だが、そこに著者と研究対象の間で言語化しなくても互いに理解できるイーミックな声が抜け落ちていないだろうか。カレン・ケルスキー(2003)によるWoman on the Verge: Japanese Women, Western Dreams など、日本にルーツをもたない研究者からの知見をもう少し照合すると、一移民としての新日系移民の特徴や位置づけが際立つはずである。

 

畢竟するに、本書は日系人社会の中に新日系移民が均衡を保ちながら包摂され、今後の新日系移民研究の発展のために道を拓いた重要な研究書である。

 

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