【書評】加野芳正編著『マナーと作法の社会学』/矢野智司編著『マナーと作法の人間学』

【書評】加野芳正編著『マナーと作法の社会学』/矢野智司編著『マナーと作法の人間学』

教育学研究 第84号 第3巻 p44よりimages’l−Ô−w46-A.ai

巷には、マナーや礼儀作法のマニュアル本で溢れかえっている。にもかかわらず、と言うべきか、だからこそ、と言うべきか、マナーや作法についての本格的な人文社会科学の研究は極めて少ないのが現状である。

ここに紹介する二冊は、一見表層的なテーマに見えて、実は人間社会にとって深い意味を持つマナーや作法について、教育社会学および教育哲学の研究者らが、様々な観点からその深奥へと迫っていく意欲作である。

『マナーと作法の社会学』がテーマにするのは次の5点。①マナーの本質は何か、②マナーは歴史的にどのように成立したか、③マナーの社会的機能は何か、④マナーはどのように守られているのか、⑤マナーはどのように伝達されているか。

編者の加野氏によれば、現代の日本社会におけるマナーには2つの特徴があるという。1つは、戦前においては、マナーや作法は家における「タテの人間関係」において必要とされることが多かったが。現代においては、公園、教室、電車の中など、「家の外」へとその重点がシフトした点である。もう1点は、以前はマナーや作法には精神修養の側面が強かったが、今日においては、「他社に迷惑をかけない、市民生活を快適に送る」ためのものへと集約されていることである。

このような、匿名の諸個人から成り立つ社会においては、「粋」や「心遣い」を軸とした作法やマナーを身に着けるよりは、マニュアル化されたマナー、あるいはマナーのルール化といったことが起こってくる。一人ひとりが喫煙マナーを身につけるよりは、権力がそこに介入して、至る所で喫煙禁止が条例化されていくといった具合である。

そのことが「粋」や「心遣い」からなる人間世界を貧しくしてしまっているのではないか。これが、本書の執筆者らに共有されている問題意識である。

たとえば村上光朗氏は、ルール化されたマナーが、子どもたちのマナー感覚を育むことをかえって阻害してしまっているのではないかと述べる。その例として、「かくれんぼができない子どもたち」が挙げられる。「かくれんぼ」は、「危険な場所にわざわざ隠れること」であり、また相手を「騙すこと」である。だから、「大人側が推奨するお行儀の良いマナーに従えば、『かくれんぼ』という遊びはそもそも初めから成立しようがない」。しかし子どもたちは、むしろこのような経験を通して、子ども特融のマナー感覚を育んでいくはずなのだ。それはつまり、単なるルールとは区別された、ある種「粋」なものとしてのマナーの感覚である。

西村佳代氏は、多くの大学生が、教室において眠ったり、メールを送ったり、ちょっとした私語や内職をしたりすることを、マナー違反とは認識していないことを指摘する。授業とはお金を払って提供されるサーヴィスであり、「提供されたサーヴィスをどうするかは消費者の勝手であり、たまたま居合わせたほかの消費者に対しての振る舞いまでも制限される必要はない」と考えられているからだ。他方、現在多くの大学はマナー教育に熱心だが、西本氏は、ここにおけるマナー教育も、マナーは「自分のために学ぶもの」(得になるか否かで判断されるもの)というマナー観に基づいたものであることを述べている。「キャリア教育の文脈で教えられるマナーは、就職や入植後の活動をスムーズにするためである。自分のために役に立つからマナーを学ぶのだという宣伝文句が多用されており、マナーを守ることは手段化さているようにみえる」。このようなマナー観が支配的である限り、越智康詩氏の言葉を借りれば、「人格と人格が触れ合う空間を創出しながら、自由で闊達な交流を促す小道具・パフォーマンス」としてのマナーはますますやせ細ってしまうことになるだろう。

『マナーと作法の人間学』においても、「粋」なものとしてのマナーという視点は共有されている。さらに本書では、「純粋贈与」としてのマナーという概念もまた展開される。編者の矢野氏によれば、「マナーは、公共の空間において、仲間ではない他者に仲間と同等の権利を認めようとするもの」なのである。ここには、従来の共同体において重視されてきた、見返りを求める互酬性とは異なった次元の可能性がある。

こうした観点から、例えば鳶野克己氏は、「あいさつ」のマナーに、単なる功利的な人間関係の潤滑油としての機能を超えた、「他社や事物や出来事との喜びに満ちた交感の表現」を見出そうとする。また矢野氏は、他者を歓待する時、そして弔う時の「純粋贈与」の作法にマナーの可能性を見る。岡部美香氏は、「公共の場」における、自由で自立的な人間同士の、「相手との出会いを享受し、相手と自分がいまここに存在するその意味の充溢のためにのみ供される『いき』なプレゼント」としてのマナーについて論じる。それぞれに刺激的な論考ばかりだ。

さて、とすれば、次に探求されるべきは、「純粋贈与」としてのマナーを可能にする条件は何か、という問いであろう。さらなる展開が楽しみである。

(熊本大学 苫野 一徳 評)

『マナーと作法の社会学』

【東信堂 本体価格2,400円】

『マナーと作法の人間学』

【東信堂 本体価格2,000円】

 

 

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